「上手い努力」ができる人とできない人が居る世界の話

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上の記事と、中で紹介されている漫画で言われてることは、何となく理解はできる。

 

・自分の子のレベルを把握する、出来ないならアウトソーシングする。

・現状の課題を明確にした上で、一つ一つ解決する。

・やり方を適宜修正する

 

こういうのは、使い古された言葉で言えばPDCAサイクルとかOODAループというものなんだと思う。

 

ja.wikipedia.org

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こうやって努力のやり方を言語化するのは本当に素晴らしいことではある。

でも、一方でこうも感じてしまう。こういうのを読んでも結局超えられない何かがあるのではないかと。

現状を把握したり、課題を見つけて解決したり、やり方を修正する能力には、格差がある気がするのだ。

最初にリンクを貼った記事の中でも、それらしいことが言及されている。

 

教育格差、文化資本による格差というのは、勉強に対する考え方や姿勢という部分で露骨に差が出ます。

 

何が正解であるか、確信を持って迷わずに努力できる。これこそが最大の強みなんですよね。

 

RPGをプレイする時初見のプレイヤーがチートでお金だけ999999にできたとしてもそれだけで効率化できる部分は装備くらいです。

一方で一度クリアしたことがある人とか、謎解き要素の答えとかすべてわかってたり優秀なナビシステムがついてて全く迷わない状態の人はいろんな形で効率化できる。

二人で競争したら、よほどそのRPGが装備の力だけでクリアできる仕様でない限り、前者の人はクリア速度で負けますよね。

 

これは金銭的な格差以上に残酷だと思います。

 

また、過去そのような記事を書いた方もいる。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

問題は、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」の部分をどうやって鍛えていけば良いのかがわからないことだ。

 

 ただし、「自分は努力の目利きが苦手」と自覚するのも、「この分野はコンサルやコーチにアウトソースしたほうがいい」と判断するのも、これはこれで簡単ではない。努力の目利きができない人ほど自分の苦手なところを他人にアウトソースしたほうがいいはずなのに、その判断自体、努力の目利きができなければ困難というパラドックス*1

 

努力の目利き力やセンスに、天賦の才能が絡んでいるという印象は、いまだに拭えない。努力の目利き、努力をデザインする力を、人はどこでどうやって獲得すればいいのだろうか?

 

言っておくと、僕はこの手の本を普段から熱心に読んでる訳じゃない。紹介されている漫画もコミックDAYSで無料公開されていた7話までしか読んでいない。僕の知らない間に、今までの努力の方法論の中で言語化されていなかったセンス的部分をより深く追求するよう改善されていってるのだろうし、漫画をもっと読み進めればそれが分かるのかもしれない。

 

ただ、人間の認知の差とかの話を軽く齧っていると、根本的に覆せない何かがある印象は否めない。

 

(あと、もはやこれは努力の方法論を書いてる人が言及すべき領域ではないのだろうけど、そもそも重度なADHD等を持っていると、先延ばし癖等により努力自体ができないという問題もある。)

 

才能よりも上手い努力、というのは――

この記事の最後には、「体系的に何かを理解する方法を会得すれば、勉強に限らず任意のことを身につけられる人間になれる」という趣旨のコマが引用されている。

 

これは希望に見えるが、逆に言えば「体系的に何かを理解する方法を会得できなければ、勉強に限らず任意のことを身につけられない人間になる」という絶望でもないだろうか。

 

まだ私が小さい頃、なんとなくピアノの才能がある人、勉強の才能がある人、野球の才能がある人というのがバラバラにいるものだと思っていた。

 

しかし、年齢を重ねるにつれて、何か一つに才能があるのはレアケースで、多くの場合は「上手い努力」の才能があるかどうか、という現実があるのではないかという気がしてきた。

 

小学校の頃、ピアノがかなり上手い人が居たのだが、良い中学に行った。

 

高校の頃、誰とでも分け隔てなく会話できる上運動神経も良く、Pixivランキングで上位を取るほど絵が上手い人がいた。良い大学に行った記憶がある。

 

あと、その人とは別に、FORTNITEでランキング上位に入ってたり、Apexでマスターに到達してたりする人もいた。どこの大学に行ったかは知らないけど、数学とかの理解は早かったと思う。

 

あまりにも極端な0-100思考だと自分でも思ってる。でもこの世は、何でもできる器用な人と、そうじゃない悲惨な人に分かれてるのではないか――なんて気分になってくる。

 

note.com

プロゲーマーが『nerf後の使用感を確かめる』配信で何が強いか何が強く無いかが見定められることはあるべき姿なのかもしれないし、一番冷静なDCGプレイヤーが、鮮やかとしか言いようのない精密さでヒキキモンを打ち倒す結果に収束していくのは正しいとすら思う。ぶっちゃけこのnoteはオンライン(対戦と言った方が?)ゲームを一刀両断できる切れ味があるわけでもないし、私的な感情を無理くりマクロな問題にしようとしてるだけで、全編通してボヤきでしかないのかもしれない。ただ、ぶっちゃけそれでもいい。漠然と感じる「けっきょくどこでも頭のいい奴が勝つんじゃん」という無力感は、なんの花にたとえられよう?

 

ミクロ的にはそんなルサンチマン言ってもしゃーないと言われればそれはそうだ。結局、自分にとっては1ミリくらいしかその内容を掴めないとしても、努力する方法の本を読んだりして、泥水すすって人よりもゆっくりゆっくり進んでいくしかないのだろう。

 

ただ、もうちょっとマクロな視点で考えるんだったら――

悲惨な人たちのレクリエムが届いて、何か救いになるものが来ないかと、たまに思ってしまうのである。

それがベーシックインカムのような経済的なものなのか、安全な(?)宗教のような精神的なものなのかはなんとも言えないけど。

 

www.uta-net.com

此のまま 此処には居られない

此のまま 此処には居られない

けど何処かに 向かっていくには

あまりにも ヒントが少ない

 

此のまま 此処には居られない

此のまま 此処には居ちゃダメだと

誰かに諭されるのも うんざりしてんだよ

 

CoMETIK - 無自覚アプリオリ

youtu.be

*1:余談なんだけど、そもそもアウトソースしたとしても壁がある。美大やその予備校、専門学校に通っている様子が見れないのに素人目からすれば上手い絵を描く人もいれば、塾に入っても全然成績が伸びない人もいる。昔国語の教科書で「腿を上げて走れと言われたが、それは「地面を強く蹴る」というところへの過程でしかなかった。そのまま受け取らず、ちゃんと考えなきゃいけないね」という話を読んだことがある。そういった吟味のセンスがある人はアウトソーシングを上手く使えたり、そもそもアウトソーシングなしでもそこそこのレベルまで行けそうな一方、そうでない人はこれまた悲惨だ。