いいねが欲しくなるのは、「自分が痛い人ではないと証明したいから」ではないかと思った話

よく創作に関する話で、「いいねなんて追い求めるな」ということがバズる。

というか自分もよくそう思ってる。自分は創作やってないけど、いいね欲しいって言ってる人を見るたびに「そんなリアルに関わるもんじゃないのに」とずっと思ってた。

しかし、この増田の一部分を見てちょっと理解できるようになったかもしれない(増田の本題とはそんな関係しない話なんだけれども)。

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個人的に気になったのがこの部分。

例えば解説文の文体。これは感覚の話だが、どこか角の強いというか「初カキコ…ども」的なBさん自身性質が滲んでみえるというか。
本人が面白いと思って載せたのであろう文中の冗談表現も、ドヤりを感じて笑いづらい。連れ歩く仲間のネーミングセンスも、意外性や驚きがあんまりなかった。

これを見て、良くも悪くも「空気を読めないおじさん」的だなあと思った。

 

「空気を読めないおじさん」というのは、ネット上のチャットで昔のセンスっぽい顔文字を沢山張り付ける人だったり、マイナーめな作品を知ってる人でないと分からないネタを多用したり、自分語りを長々とやってしまう人をイメージしている。

 

それと創作と何の関係があるんじゃいとなるかもしれないが、今のアマチュア創作は(程度の差はあれど)半ばコミュニケーション手段としてやっている者が多い印象がある。

 

その中で、増田の引用部分のような特徴を有していると、創作の世界では「空気を読めないおじさん」と同じような目で見られてしまうリスクを背負ってしまうのではないかと感じた。

 

当然それは避けたい訳だが、じゃあ何を指針にするのかって言われたら「いいね数」になるのではないだろうか。

 

単なるクオリティの高低以上に、ノリや絵柄が古臭いかどうかはスルーを決める理由になりやすそうで、いいね数が多いならそれ即ち空気が読める創作が出来ている、という証明になると感じているのではないだろうか。

 

コミュニケーションの一種として空気を読んで創作するのが良いのかは……私には分からない。悪いってカッコよく言い切りたい気持ちはある。でも、何をするにも空気読んでる自分がいる気もする。