ハッキリ言うと、こういったアマチュア創作と商業シーンにあるグラデーションをよじ登っていくこと自体、社会生活における金銭とセックスを巡る闘争——社会への売春——と何ら変わらなくなっている。
現在の私には、こまごまとした実践の出来不出来より、この自己像を巡る捉え方の違い、真贋や善悪を巡る線引きの違いのほうが個人の社会適応にとって核心的問題ではないかと思える。外観を整えたり就活をしたりすることが即座に自己否定や嘘になってしまう人は、そうでない人より不器用にしか生きられないし、自分自身のことも、他人のことも、簡単に許せなくなってしまうのではないか。あるいは社会というものを私が見ているよりもずっと悪く、ずっと恐ろしく、ずっと不信にみちたものと見ざるを得なくなってしまうのではないか。
最終的には、そのような人にとって人間社会に生きるということはすべて嘘となり、真正な、ありのままの自分を形而上の世界に想像するしかなくなるのではないか? (もしそうだったら、これは宗教でなければ太刀打ちできないのではないか?)
一つ目の記事は「ネットで創作者になろうとすると、なんか就活みたいになって何か……何か……」という感じの記事。
二つ目は「「就活は自分を偽るから悪」と言っている人がいたが、自分はそう思わなかった。そう思う人と、思えない人はわかりあえないけど、わかりあおうとしながら生きよう」という記事。
結び付けると色々考えられそうな記事だ。
それで、ちょっと思い出したことがある。
自分はツイッター(現X)で、2人の絵師を見ていた。仮に片方をA、もう片方をBとする。
Aは割と最近絵師になったぽくて、結構流行りの加工を取り入れたり、ラッセンっぽい綺麗な海を入れたり、キャラが立つ分かりやすい構図(バストアップとか)をよく使ったりしていた。あと、ちょっとセクシーな絵も多かった。それで、「よく伸びるから二次創作のキャラ描きたいんだよなー」みたいなことを言っていた。
それで、早々にフォロワー数4桁になって、いいねも数百程度が安定してついていた。
それに対し、Bは何年も絵師をやっているようだった。あんまり流行りの描き方を取り入れてる感じはなくて、構図もキャラが結構小さめであることが多い(もちろん引きの絵でよくバズってる人もいる。ただ、その人は何かバズる感じじゃなかった)。セクシーな絵もあんまりない。それで、「自分は本当に好きだと思ったもの以外は描きたくない」と言っており、実際二次創作はあんまり描いてなかった。
それで、フォロワー数は3桁くらいで、いいねも数十くらいで止まる事が多かった。
普段のツイートの様子を見てると、Aは多少若者らしい悩みを吐露することはあれど、基本深くは悩まなそうな感じだった。
反してBは、自分の絵が伸びないことや、努力しても何かが得られないことを憂うような発言をよくしていた。
こうしてみると、2つ目の記事の筆者がA、1つ目の記事の筆者と2つ目の記事の言及先がBに近いんだろうな、と思う。
それ以外の発言を見てても、Bは色々と生きるのに苦労してるようだった。多分、人によっては、「ある程度テンプレを守れば、もっと生きやすいのに」と思うのかもしれない。でも、2つ目の記事で言われていたように、彼にとってはそれは何か凄く抵抗のあることなのだろう。
そんなもんだよ、誰かが言う
「気にしすぎてるんじゃない?」
違うって言う私がおかしいみたい
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しかし、彼らの仲はそこまで悪くない……気がする。
少なくとも相互フォローではあったし、スペースに一緒にいる時もあった。その中でどんな会話をしていたのかは知らないが。
まあ少なくとも、同じコミュニティに所属し続けてはいると思う。
唐突に全く違うテーマの記事を出すようだが、ここにもちょっと関係有る部分がある。
異なる考えを持つ人がナナメの関係を持つことによって「まあ自分の所属組織にこういう人がいるんだから」と、思いやりを持てるという話。
こういうのがある以上、Aは二次創作を容易に描きたくない人の気持ちが知れるし、Bはテンプレに沿う生き方に多少触れられる。使い古された言葉だが……こうやって多様性を知れるのは、やっぱり良いことだと思う。
それに、ひょっとしたらBはいざテンプレに沿う生き方をする必要が生じた時に、多少なりとも心理的な抵抗が下がるかもしれない。
結局前と似たような結論になった気がするが、色んな人と触れられるのはいいことなんだろう。
真っすぐは斜めに負けて曲がらない
曲がらない線と線は交わらない
並走して触れ合う テリトリーの中で
手を繋げたならいいね
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