いいねが欲しくなるのは、「自分が痛い人ではないと証明したいから」ではないかと思った話

よく創作に関する話で、「いいねなんて追い求めるな」ということがバズる。

というか自分もよくそう思ってる。自分は創作やってないけど、いいね欲しいって言ってる人を見るたびに「そんなリアルに関わるもんじゃないのに」とずっと思ってた。

しかし、この増田の一部分を見てちょっと理解できるようになったかもしれない(増田の本題とはそんな関係しない話なんだけれども)。

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個人的に気になったのがこの部分。

例えば解説文の文体。これは感覚の話だが、どこか角の強いというか「初カキコ…ども」的なBさん自身性質が滲んでみえるというか。
本人が面白いと思って載せたのであろう文中の冗談表現も、ドヤりを感じて笑いづらい。連れ歩く仲間のネーミングセンスも、意外性や驚きがあんまりなかった。

これを見て、良くも悪くも「空気を読めないおじさん」的だなあと思った。

 

「空気を読めないおじさん」というのは、ネット上のチャットで昔のセンスっぽい顔文字を沢山張り付ける人だったり、マイナーめな作品を知ってる人でないと分からないネタを多用したり、自分語りを長々とやってしまう人をイメージしている。

 

それと創作と何の関係があるんじゃいとなるかもしれないが、今のアマチュア創作は(程度の差はあれど)半ばコミュニケーション手段としてやっている者が多い印象がある。

 

その中で、増田の引用部分のような特徴を有していると、創作の世界では「空気を読めないおじさん」と同じような目で見られてしまうリスクを背負ってしまうのではないかと感じた。

 

当然それは避けたい訳だが、じゃあ何を指針にするのかって言われたら「いいね数」になるのではないだろうか。

 

単なるクオリティの高低以上に、ノリや絵柄が古臭いかどうかはスルーを決める理由になりやすそうで、いいね数が多いならそれ即ち空気が読める創作が出来ている、という証明になると感じているのではないだろうか。

 

コミュニケーションの一種として空気を読んで創作するのが良いのかは……私には分からない。悪いってカッコよく言い切りたい気持ちはある。でも、何をするにも空気読んでる自分がいる気もする。

「上手い努力」ができる人とできない人が居る世界の話

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上の記事と、中で紹介されている漫画で言われてることは、何となく理解はできる。

 

・自分の子のレベルを把握する、出来ないならアウトソーシングする。

・現状の課題を明確にした上で、一つ一つ解決する。

・やり方を適宜修正する

 

こういうのは、使い古された言葉で言えばPDCAサイクルとかOODAループというものなんだと思う。

 

ja.wikipedia.org

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こうやって努力のやり方を言語化するのは本当に素晴らしいことではある。

でも、一方でこうも感じてしまう。こういうのを読んでも結局超えられない何かがあるのではないかと。

現状を把握したり、課題を見つけて解決したり、やり方を修正する能力には、格差がある気がするのだ。

最初にリンクを貼った記事の中でも、それらしいことが言及されている。

 

教育格差、文化資本による格差というのは、勉強に対する考え方や姿勢という部分で露骨に差が出ます。

 

何が正解であるか、確信を持って迷わずに努力できる。これこそが最大の強みなんですよね。

 

RPGをプレイする時初見のプレイヤーがチートでお金だけ999999にできたとしてもそれだけで効率化できる部分は装備くらいです。

一方で一度クリアしたことがある人とか、謎解き要素の答えとかすべてわかってたり優秀なナビシステムがついてて全く迷わない状態の人はいろんな形で効率化できる。

二人で競争したら、よほどそのRPGが装備の力だけでクリアできる仕様でない限り、前者の人はクリア速度で負けますよね。

 

これは金銭的な格差以上に残酷だと思います。

 

また、過去そのような記事を書いた方もいる。

 

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問題は、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」の部分をどうやって鍛えていけば良いのかがわからないことだ。

 

 ただし、「自分は努力の目利きが苦手」と自覚するのも、「この分野はコンサルやコーチにアウトソースしたほうがいい」と判断するのも、これはこれで簡単ではない。努力の目利きができない人ほど自分の苦手なところを他人にアウトソースしたほうがいいはずなのに、その判断自体、努力の目利きができなければ困難というパラドックス*1

 

努力の目利き力やセンスに、天賦の才能が絡んでいるという印象は、いまだに拭えない。努力の目利き、努力をデザインする力を、人はどこでどうやって獲得すればいいのだろうか?

 

言っておくと、僕はこの手の本を普段から熱心に読んでる訳じゃない。紹介されている漫画もコミックDAYSで無料公開されていた7話までしか読んでいない。僕の知らない間に、今までの努力の方法論の中で言語化されていなかったセンス的部分をより深く追求するよう改善されていってるのだろうし、漫画をもっと読み進めればそれが分かるのかもしれない。

 

ただ、人間の認知の差とかの話を軽く齧っていると、根本的に覆せない何かがある印象は否めない。

 

(あと、もはやこれは努力の方法論を書いてる人が言及すべき領域ではないのだろうけど、そもそも重度なADHD等を持っていると、先延ばし癖等により努力自体ができないという問題もある。)

 

才能よりも上手い努力、というのは――

この記事の最後には、「体系的に何かを理解する方法を会得すれば、勉強に限らず任意のことを身につけられる人間になれる」という趣旨のコマが引用されている。

 

これは希望に見えるが、逆に言えば「体系的に何かを理解する方法を会得できなければ、勉強に限らず任意のことを身につけられない人間になる」という絶望でもないだろうか。

 

まだ私が小さい頃、なんとなくピアノの才能がある人、勉強の才能がある人、野球の才能がある人というのがバラバラにいるものだと思っていた。

 

しかし、年齢を重ねるにつれて、何か一つに才能があるのはレアケースで、多くの場合は「上手い努力」の才能があるかどうか、という現実があるのではないかという気がしてきた。

 

小学校の頃、ピアノがかなり上手い人が居たのだが、良い中学に行った。

 

高校の頃、誰とでも分け隔てなく会話できる上運動神経も良く、Pixivランキングで上位を取るほど絵が上手い人がいた。良い大学に行った記憶がある。

 

あと、その人とは別に、FORTNITEでランキング上位に入ってたり、Apexでマスターに到達してたりする人もいた。どこの大学に行ったかは知らないけど、数学とかの理解は早かったと思う。

 

あまりにも極端な0-100思考だと自分でも思ってる。でもこの世は、何でもできる器用な人と、そうじゃない悲惨な人に分かれてるのではないか――なんて気分になってくる。

 

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プロゲーマーが『nerf後の使用感を確かめる』配信で何が強いか何が強く無いかが見定められることはあるべき姿なのかもしれないし、一番冷静なDCGプレイヤーが、鮮やかとしか言いようのない精密さでヒキキモンを打ち倒す結果に収束していくのは正しいとすら思う。ぶっちゃけこのnoteはオンライン(対戦と言った方が?)ゲームを一刀両断できる切れ味があるわけでもないし、私的な感情を無理くりマクロな問題にしようとしてるだけで、全編通してボヤきでしかないのかもしれない。ただ、ぶっちゃけそれでもいい。漠然と感じる「けっきょくどこでも頭のいい奴が勝つんじゃん」という無力感は、なんの花にたとえられよう?

 

ミクロ的にはそんなルサンチマン言ってもしゃーないと言われればそれはそうだ。結局、自分にとっては1ミリくらいしかその内容を掴めないとしても、努力する方法の本を読んだりして、泥水すすって人よりもゆっくりゆっくり進んでいくしかないのだろう。

 

ただ、もうちょっとマクロな視点で考えるんだったら――

悲惨な人たちのレクリエムが届いて、何か救いになるものが来ないかと、たまに思ってしまうのである。

それがベーシックインカムのような経済的なものなのか、安全な(?)宗教のような精神的なものなのかはなんとも言えないけど。

 

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此のまま 此処には居られない

此のまま 此処には居られない

けど何処かに 向かっていくには

あまりにも ヒントが少ない

 

此のまま 此処には居られない

此のまま 此処には居ちゃダメだと

誰かに諭されるのも うんざりしてんだよ

 

CoMETIK - 無自覚アプリオリ

youtu.be

*1:余談なんだけど、そもそもアウトソースしたとしても壁がある。美大やその予備校、専門学校に通っている様子が見れないのに素人目からすれば上手い絵を描く人もいれば、塾に入っても全然成績が伸びない人もいる。昔国語の教科書で「腿を上げて走れと言われたが、それは「地面を強く蹴る」というところへの過程でしかなかった。そのまま受け取らず、ちゃんと考えなきゃいけないね」という話を読んだことがある。そういった吟味のセンスがある人はアウトソーシングを上手く使えたり、そもそもアウトソーシングなしでもそこそこのレベルまで行けそうな一方、そうでない人はこれまた悲惨だ。

ウケ狙いができる絵描きと、そうじゃない人の平行線の美学

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ハッキリ言うと、こういったアマチュア創作と商業シーンにあるグラデーションをよじ登っていくこと自体、社会生活における金銭とセックスを巡る闘争——社会への売春——と何ら変わらなくなっている。

 

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現在の私には、こまごまとした実践の出来不出来より、この自己像を巡る捉え方の違い、真贋や善悪を巡る線引きの違いのほうが個人の社会適応にとって核心的問題ではないかと思える。外観を整えたり就活をしたりすることが即座に自己否定や嘘になってしまう人は、そうでない人より不器用にしか生きられないし、自分自身のことも、他人のことも、簡単に許せなくなってしまうのではないか。あるいは社会というものを私が見ているよりもずっと悪く、ずっと恐ろしく、ずっと不信にみちたものと見ざるを得なくなってしまうのではないか。
 
最終的には、そのような人にとって人間社会に生きるということはすべて嘘となり、真正な、ありのままの自分を形而上の世界に想像するしかなくなるのではないか? (もしそうだったら、これは宗教でなければ太刀打ちできないのではないか?)

 

一つ目の記事は「ネットで創作者になろうとすると、なんか就活みたいになって何か……何か……」という感じの記事。

二つ目は「「就活は自分を偽るから悪」と言っている人がいたが、自分はそう思わなかった。そう思う人と、思えない人はわかりあえないけど、わかりあおうとしながら生きよう」という記事。

 

結び付けると色々考えられそうな記事だ。

 

それで、ちょっと思い出したことがある。

 

 自分はツイッター(現X)で、2人の絵師を見ていた。仮に片方をA、もう片方をBとする。

 

 Aは割と最近絵師になったぽくて、結構流行りの加工を取り入れたり、ラッセンっぽい綺麗な海を入れたり、キャラが立つ分かりやすい構図(バストアップとか)をよく使ったりしていた。あと、ちょっとセクシーな絵も多かった。それで、「よく伸びるから二次創作のキャラ描きたいんだよなー」みたいなことを言っていた。

それで、早々にフォロワー数4桁になって、いいねも数百程度が安定してついていた。

 

 それに対し、Bは何年も絵師をやっているようだった。あんまり流行りの描き方を取り入れてる感じはなくて、構図もキャラが結構小さめであることが多い(もちろん引きの絵でよくバズってる人もいる。ただ、その人は何かバズる感じじゃなかった)。セクシーな絵もあんまりない。それで、「自分は本当に好きだと思ったもの以外は描きたくない」と言っており、実際二次創作はあんまり描いてなかった。

それで、フォロワー数は3桁くらいで、いいねも数十くらいで止まる事が多かった。

 

普段のツイートの様子を見てると、Aは多少若者らしい悩みを吐露することはあれど、基本深くは悩まなそうな感じだった。

 反してBは、自分の絵が伸びないことや、努力しても何かが得られないことを憂うような発言をよくしていた。

 

 こうしてみると、2つ目の記事の筆者がA、1つ目の記事の筆者と2つ目の記事の言及先がBに近いんだろうな、と思う。

 

 それ以外の発言を見てても、Bは色々と生きるのに苦労してるようだった。多分、人によっては、「ある程度テンプレを守れば、もっと生きやすいのに」と思うのかもしれない。でも、2つ目の記事で言われていたように、彼にとってはそれは何か凄く抵抗のあることなのだろう。

 

そんなもんだよ、誰かが言う

「気にしすぎてるんじゃない?」

違うって言う私がおかしいみたい

CoMETIK - 平行線の美学

 

 

 しかし、彼らの仲はそこまで悪くない……気がする。

 

 少なくとも相互フォローではあったし、スペースに一緒にいる時もあった。その中でどんな会話をしていたのかは知らないが。

 

 まあ少なくとも、同じコミュニティに所属し続けてはいると思う。

 

note.com

 

 唐突に全く違うテーマの記事を出すようだが、ここにもちょっと関係有る部分がある。

 

 異なる考えを持つ人がナナメの関係を持つことによって「まあ自分の所属組織にこういう人がいるんだから」と、思いやりを持てるという話。

 

 こういうのがある以上、Aは二次創作を容易に描きたくない人の気持ちが知れるし、Bはテンプレに沿う生き方に多少触れられる。使い古された言葉だが……こうやって多様性を知れるのは、やっぱり良いことだと思う。

 

 それに、ひょっとしたらBはいざテンプレに沿う生き方をする必要が生じた時に、多少なりとも心理的な抵抗が下がるかもしれない。

 

 結局前と似たような結論になった気がするが、色んな人と触れられるのはいいことなんだろう。

 

真っすぐは斜めに負けて曲がらない

曲がらない線と線は交わらない

並走して触れ合う テリトリーの中で

手を繋げたならいいね

CoMETIK - 平行線の美学

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著名人の名言とクオリア

 ツイッター(現:X)をやってたら、「頑張りを評価するなんて意味ない。結果を見ろ」(超うろ覚え)みたいな名言が回ってきた。

 その人の作品を僕は見たことがある。正直一生のうちに残るほどの感動は得られなかったものの、何となく凄いことをしているのは分かる作品だった。それで、その発言にも説得力はある程度感じる。

 ただ、僕がこういう名言を聞いた時思うのは、「でも実際、みんな色んな程度で解釈するよね」と。

 

 例えば、「頑張ったのに俺はダメだ……やめる」みたいなのは、厳しく言えば頑張りを評価しすぎなのかもしれない。

 ただ、「頑張ったからケーキ買っちゃお! ……さてじゃあPDCAサイクル考えますか」というのは、頑張りを評価してるとも言えるし、結果を見ているとも言えるだろう。もしくはその両方とも。

 

 こうしたように「頑張りを評価」「結果を見る」みたいなのには色々解釈があって、実際どう行動するかはだいぶ異なる。クオリアってやつかもしれない。

 

 多分そういうのって、名言を聞く前から学校のテストとか部活の結果から色々行動していく内に良い塩梅を見つけるもんなんだと思う。

 だから、「この名言分かる!」というのは、その塩梅を自分で言語化した結果と名言が一致した時の感想なのだろう。

 

 名言によって行動が変わることだって勿論あると思う。ただ、その行動の変わり方だって、失敗した時の自分へのご褒美をちょっと減らすのか、PDCAサイクルをより効率的に回せるような研究をするまで色々ありそうだ。

 

 そうやって試した結果、自分の心技体に無理のない範囲を会得するのだと思う。

 

 何が言いたいのか分からなくなったので終わり。

 

 あと、具体的にどこがどうと言語化する根気がイマイチないのだが、関係ありそうな記事を貼る。

 

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(ほぼメモ)健全に生きる鍵となりそうな何か

amamako.hateblo.jp

ですが、そこに彼ピとは違う第三者が、お互いに気持ちを察することができるような「顔の見える場所」にいれば、また異なってくるでしょう。そしてその第三者が複数であり、かつ価値観に多様性を持っていれば、さらに安定性は増すでしょう。

実は、本当に必要な承認とは、そのような「顔が見え、多様性がある複数の第三者による共同体」における、「そこにいてもいいよ」という安心感なのではないか。

(中略)

重要なのは、「ひきこもっててもいいから、家族以外と関わりを持つ」ということです。それは、例えば好きなアニメのファン同士のチャットルームに入り浸るとか、あるいはゲームの仲間のオフ会にでかけてみるとかでも良いです。そういう「家族とは異なる第三者」と付き合うことが、実は引きこもりから抜け出す、一番の治療法なんですね。

 

amamako.hateblo.jp

結局、何にも依存しないで生きることができる個人なんてものは存在しないわけです。しかしだとしても、その依存先を複数持てるようにすることで、ある依存先が依存と引き換えに服従を強いてきても、「じゃあ別の依存先に依存するよ」と、依存先を乗り換えることができる。そのように選択肢を複数持てるようにすることこそが、依存しながらも主体性を持つために必要なのである。

 

www.youtube.com

 

この辺りの話、上手く結び付ければ人生を良く生きていく(具体的に言うと、何かに過度に依存しない、自暴自棄にならない、カルトとかにはまらないとか)うえで凄く大切な何かが言える気がするのだが、イマイチ言語化できないのでとりあえずここにメモしておく。

(こんな記事見る人いるか知らないけど、一番下の動画は日本語字幕があるよ。出したかったら歯車マーク押してね)

 

あと、

penguindrum-movie.jp

 

まだ見てないんだけど、この映画も流れてくる感想を見ると何となく似たテーマを持ってる気がする。

 

結局色んな人/モノと結びつくのが大切だよね的な。